幸せはプロセスにある

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幸せとは何か?という問いへの答えは、人それぞれ違うだろう。
財産、健康、結婚、美容、知識、社会的信用などなど。人それぞれの幸せになる定義はある。

それら定義はすべて幸せになるための条件ではない。

しかしこのような定義が、幸せの定義になっていることの理由と、本当の幸せについて私の考えを伝えておきたい。

前述の通り、幸せの定義は人それぞれであることに異論がある人はいないだろう。しかしどんな環境や状況だって、幸せと感じる人もいれば不幸せと感じる人もいる。

幸せとはなんだろうか?幸せは以下2つの特徴がある。

  1. 幸せとは、完全に主体的なことである。他人に良いことして幸せだと感じる人もいるけど、その感じてる幸せは自分の心の中だから。自分が幸せをどの程度強く感じるかだけ唯一の指標であり、他の要素は関係がない
  2. 幸せとは、感情である。嬉しいとか笑えるとか苦しいとかと同じカテゴリーに属する(幸せについては、いろいろな感情が混じってるが)。感情が起動しないなら幸せではない。

財産、健康、結婚、美容、知識、社会的信用などなど。私達は幸せであることの尺度にこのような基準をつかってきた。

たしかに誰だって不幸や幸福だと思うことはある。生活もできないほど貧しくなったことや慢性的に健康を損ねたら、それは不幸と感じるだろう。同様に、宝くじがあたってお金がもらえたら幸せだろうし、病気や慢性疾患が治ったら幸せだろう。
お金がいくらあると幸せとか、結婚したら幸せとか、そのような基準で幸せを定義し、追い求めている人が多いだろう。

でもこの基準、1.2.のどれにも適していない。
なぜなら、このような基準は客観的な評価であり、主体的ではない。主体的な評価なら自分がどう思うかだけで判断すべきで、誰からも判断されることではない。そして、上記の尺度には感情がない。1億円を多いと思うか少ないと思うかその人の感情はこの金額だけでは判断つかない。10万モルあげる、と言われても多くの人はなんとも感情がわかないよね。

だから一般的な幸せの基準は、少なくとも自分自身が感じる幸せの尺度とし違う、というより全く異なることを測定していることになる。

しかし、なぜこのような基準が使われているのだろうか?それは客観的で相対的だからだ。豪邸に住んでいれば、幸せなんだろうと思う人が多いだろうし、家がなかったら不幸なんだろうと思う人が多い。このように、他の人と比べて幸せそう不幸せそうと人に判断してもらうためのものさしでしかないのだ。

そしてそのものさしは自分の幸せを測定できないということはわかってもらえたろう。

本当の幸せとは、客観的な状態ではなく、何か状態に向かう過程、つまりプロセスにあると考えたらどうだろうか。

お金持ちになるなら、なったことが幸せなのではなく、お金持ちになるために仕事したりお金をためたりする過程が幸せであれば、幸せなのだということだ。

考えてみてほしい、すべての感情は状態に紐付かない。「面白い」はお笑いを見た時におきるだろうけど、それはコメディーをしているから面白いのであって、ただそのコメディアンを見てても面白くない。悲しみ、嬉しさ、なんでも過程に紐付いている。家を買う、給料をもらう、健康になるのような行動に対して紐づくものだ。

だから、どんなことでもいい。病気を治すなど、目指す状態が何でもあったとして、その目指す過程において、幸せを感じるようにすることが幸せに生きていくために大事なことだということだ。

だから、日々向かっていることを幸せにやろう。自分の成長で幸せになってもいいし、他人を助けて幸せになってもいいだろう。過程で幸せを感じること。目指すゴールに到達したら幸せになると思わないこと。それは後で他人が指差して感じるものであって、作った豪邸も、健康になった自分も、もうなってしまったら幸せはあまり感じないものだからだ。

だから、幸せはプロセスの中にある。今を幸せに生きよう。

Toshiaki Ejiri: Born in Fukushima, working as web analytics consultant since 2000.