芸能や制約があるとイノベーションが起こる

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我が家では中国ドラマが大人気だ。私以外の家族全員が楽しみに見ている。

私は時間も余裕もなくて全く見ていない。朝ドラみたいに適当に流しておけないのだ。字幕を懸命に追いかけないと、あらすじを一瞬で見失う。実際私は一回も何の話をしてるのか、清なのか漢なのか随なのか唐なのか分からない。

これは漢字文化によるものだと思う。中国のドラマの展開はとにかく早い。一瞬気を抜くとリアルタイムに見ている家族でも見失うようだ。これは漢字では短い言葉で意図を伝えられるからじゃないかと思う。中国語が話せる人にとっては相当高速で情報を伝達できる手段なんだろうと思う。

そして香港や台湾ならともかく、中国大陸は政府によって様々な規制がある。だからドラマの表現だって、大きな制約があるはずだ、本当にセンシティブな話は論外としても、資本主義や帝国主義、封建主義にしても共産主義においては、解体されるべき体制であるはずだ。その他にも、残酷なシーンとかR18みたいなシーンも多分ない。私は見たことない。

その中でドラマをつくるのは色々難しいのではないか、と思う。その瞬間では資本主義や封建主義礼賛みたいな話になることもあるだろう。過激なシーンも必要なこともあるだろう。表現の自由がない中でドラマをつくるのは難しいだろう。

私の家族は結構刺激的な表現が好きで、シリアルキラーが登場するアメリカのドラマなど大好きだった。そんな家族にとって中国のドラマは退屈ではないか、と思うのだが、とても楽しいという。

そして思うのだが、表現の不自由は芸能のクオリティをあげるのかもしれない、ということだ。

歌舞伎は女性がステージに上がらないから生まれた。落語は座って扇子しかつかえないから生まれた。

芸能は規制すると、その中で最大限の努力をする。それがイノベーションになるのかもしれない。

漫才や演劇も何か制約をあたえたらすごいおもしろくなったりして。

でも芸術の表現を社会や正義で規制するのは反対。

アートは人に残された究極の最後の表現手段だ。
理念も論理もぶっとばす表現の余地のない未来なんてありえない。

Toshiaki Ejiri: Born in Fukushima, working as web analytics consultant since 2000.