学びは仕事のためにあるのか?

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日本以外の国の教育に関心が高まっている。
海外の教育について。私の知っている限りの情報とそこから感じていることを共有しておこうと思う。

まず結論からいうと、国も手法にもかかわらず、どんな教育もダメな方法なんてなくて、学ぶ内容や、講師、生徒によって変わると思う。

講師が教えにくかったり、生徒が学びにくいなら、他の方法をとるなり学ぶ内容を変えるべきだろう。

例えばインドの数学、算数の教育。
インドの算数や数学の教育が注目されている。たしかにインドの数学教育は熱心で、掛け算も日本以上の桁数を教えたりする。日本や中国のそろばんとは違う道具をつかうビジュアライズされた授業も面白いと思う。
ただ私が聞いてる限りだと、インドの教育は基本暗記だ。宿題やテストで能力を確かめていく。

シンガポールの授業も人気で、インドや中国など多言語を学ぶことができ、また政府も最先端の授業を取り入れている。子育てをするならシンガポールが一番いい、という評価もあるし、実際シンガポールで過ごす母親のほとんどは日本に戻らないことを望んでいた。

一方でシンガポールに限らないことだが、子供にどんなキャリアを歩ませるかということと一緒に考える必要がある。もし将来日本の高校や大学に通わせるなら、日本で学んだほうがいい、という意見もある。

また日本語の教育がどうしても弱くなる、という意見も聞く。私は日本語多少苦手でもあとでゆっくり学べばいいと思うし、日本の大学こそ、日本語苦手な海外の日系子女を受け入れた方がお互いプラスだとおもうけどね。

これからの人材に求められているのは

語学なのか?
STEAMなのか?
それともプログラミング?
どれなのか?すべて必要なのか?
が問題だ。

多分どれも無駄じゃない。
学ぶことに無駄がない。

けど、それがコアではないはず。
通訳ソフトが言葉の壁を取り払ってくれるだろう。

一つ思うことは、STEAM教育の根幹は、論理だったり完成だ。
STEAMは九九じゃない。3✕4=12のように学んだら使えるようになるものじゃない。
あと私含め40年以上前に子供の頃、オタクと揶揄されながらもプログラムをいじってた昔の子供達はちゃんと言わなければいけない。
プログラミング学んでプログラマーとして活躍している大人、そんなにいないよ。私含め。

プログラミング教育を子供から学んだら敏腕プログラマーになる?そんなもんじゃない。高度な論理的思考能力とトライアンドエラーに耐える精神力は子供からやったら高まるとは思えない。

必要なスキルはもう変わってるのでは

教育は記憶ではなくなった。発信やクリエイティブに変わっている。
これって人類の教育歴史学とかあるなら革命的なできごとで、大脳の求められる最重要能力が記憶から発想変わったのだと思う。コンピューターがあるから人間のRAMに頼るメリットはない。記憶ではもう活用できない機器に大脳がなったということだと思う。

そうなると自由な発想、コミュニケーションなどのソフトスキルが大事になってる。重要だけど、単位とか資格にいまのところなっていないスキルが大事。

何がその大事なスキルか?
いま答えはない、多分いま教えてることじゃないのだろう。
教えてる、なんて言ってるスキルやカリキュラムで30年後仕事で役立つことなんてもうない。

だって私が今使ってる能力、キーボードで日記を書いて、ウェブ解析をして、プレゼン資料をつくって、コンサルして。学校で習ったことは間接的なものは老いておけばゼロだ。

あえて言うなら授業外だった。パソコンを買ってきてプログラムを書いて、マウスでお絵かきしてた。あの経験だ。勉強していない、遊んでると言われたあの瞬間だ。

遊びからしか新しい学びは生まれないんじゃないかな、特にこれからは。

そして学びって仕事をするためのもんじゃないと思うよ。
学ぶって役に立つたたないではなく、学びたいことを探求することだと思うのだよね。考古学でも生物学でも、真実を知るということへの探求するという人類なら必要な要素、食べる、話す、聞く、みたいな要素、学ぶを身につけるための時間だと思うけどな。

Toshiaki Ejiri: Born in Fukushima, working as web analytics consultant since 2000.