通夜と震度6でバタバタした1日

fushimi inari taisha
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今日朝にいわきに移動して、通夜に参列する。葬儀は父の会社の社員が中心に手配をいただいているので私が様々な手配をする必要はなかった。

いつも通り、朝起きてから、英語の学習や仕事をある程度済ませてから上野に向かう。特急ひたつで移動する。車より電車のほうが妻は気が楽なようだ。家族5人だと移動も目立つしいろいろ物もいる。運ぶ手間もかかる。

私は喪服を着て移動したが家族はホテルで着替える予定だった。ホテル到着後、喪服に着替え、バスにて式場へ。サービスによるのかもしれないが式場へ向かうバスには誰が何人乗るかバスの運転手は知らないため、毎回全員搭乗しているか確認する必要があった。結局よくわからないまま向かうことになるのだが。

江尻家のあるいわき市泉町は廃仏毀釈が明治時代にあったため、神式での葬儀となる。
葬儀はお焼香をせず、米を三方に盛り、その米を空の三方に移す。他でも線香は用いない。
参拝は神社と同じ二礼二拍手一礼である、ただししのび手といい、拍は音を立てない。
親族役員は玉串(榊)を奉納する。

これは参拝者もなじまない人も多く中々難しかった。私も慣れなかった。

コロナ禍のため、お通夜も告別式も基本参列をお願いしない形式をとった。しかし母の葬儀にはたくさんの弔電やお花をいただいた。両親が地元に大きく貢献してきたことを示すものだった。何人か私もお世話になっている方が弔電やお花を賜った。本当にありがたい。

基本私達は参列する皆様にご挨拶するのみで、細かい手配は行わなかった。周りの方が協力してくださって本当に助かった。それでもコロナ禍で参列を制限してきた結果だった。本当に全員が参列に来たら、大変な人数になっていただろう。

社員や元役員とも会話をした。私は役員として父の会社を継承しないことになっているが、そのことについての心配はみんな一様に持っているようだった。私はもう離れているで何もできないが、これだけがんばっているの社員の道筋を江尻家の全員は考えなければいけないだろう。

葬儀、母への悲しみも大きいのだが、それ以外の要素もたくさんあった。いまのところ私が事業承継しなくなったところから、関係は悪化している。そして私以外の後継者や事業承継方法をさがすため、次の方向の模索をしているはずだ(今は口を出さないでほしいと父には言われている)。私は対応はできない会社が良い方向に行けばいいと思っている。あとは他の家族の関係も難しくなっている。弟夫婦との関係も良好ではなく、義妹いたっては口も聞かない状態だ。このあたり事業承継や家族の問題、どこかで明らかにすると誰かの役にはたつと思う。落ち着いたら本でも書こうと思う。

そんあこともあり、終わったところでどっと疲れた。ある程度式場で食事を済ませたこともあり、帰ると食欲もなく、お風呂に入りねるだけとなった。

ずっと親と一緒に式に参列してた子供の1人がトランプをしたいと話した。大貧民を教えてみた。すぐ覚えてお気に入りになったようだった。少し遅かったが楽しい思い出になれば幸いだ。

そろそろ眠りにつく、そのときだった。

最初は誰かがいらずらに動かしてるかとおもったがすぐ違うとわかる激しい揺れ。震災をすぐに思い出す。今回は東京で感じたのとは違う、縦揺れだ。直下型だということに気づいた。この揺れはそう、4月11日ちょうど1ヶ月後にいわき市南部を襲ったときの地震に似ていた。あのときはKibowプロジェクトでグロービスの堀さんにお願いされていわきでのイベントを計画していたときだった。立っていられないような揺れだった。

海の真横にあるホテルだったので津波が心配だった。ドアを開け、窓を開け、あとは部屋にいるよう伝える。揺れが収まったところで浴衣を私服に着替え、何時でも動けるよう伝える。

結局大きな被害はなかったが、ユニットバスの壁の一部が剥がれていた。他に目立つ被害はなく、津波の影響はないとすぐ報道があった。すごい津波がないってこんなすぐわかるのか、と思う震度だったと思う(今でも不思議だ)。

そのあと興奮する子供たちが誰かと話したいというのでClubhouseを開けてみたら中部の人が話をしていた。そこに加わって子どもたちが話をすると、大人たちがいろいろ諭してくれた。

そこで教えてもらった通り、何時でも動ける私服を着て、靴下を履いてねた。

作成者: ejtter

Born in Fukushima, working as web analytics consultant since 2000.

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