初心忘るべからず

初心忘るべからず

このブログは口語調で、と思ったけど、このような話は気がのらないので敬体で書きます。

是非の初心忘るべからず。

時々の初心忘るべからず。

老後の初心忘るべからず。

『花鏡』(世阿弥・著)より

日本では有名な格言ですが誤解も多いようです。

「初心忘るべからずと」
いう言葉を、
「最初の立派な志を忘れるな」
と解釈する人もいますが、本当はそのような前向きな意味だけではありません。

世阿弥は
「最初の未熟だったころの恥ずかしい気持ちを忘れてはならない」
ということこそ強く伝えたかったと思います。

「是非の初心」
最初に仕事を始めたときの未熟だったときの気持ちを忘れてはいけない。
「時々の初心」
年齢や職階ごとに初めて取り組んだときの拙なかったときの気持ちを忘れてはいけない
「老後の初心」
ベテランになったあとも、経験のないことにチャレンジする初学者の気持ちを忘れてはいけない

という意味だと私は捉えています。
このような経験を積んで鼻が高くなる自分に対する戒めに近い意味だったと私は思います。

5.顧客情報の保護と実務経験の共有を両立します

だから私達は未熟だったときの気持ちを忘れてはなりません。誰もが初心者だった頃があります。そのときの不安だった自分を思い返し、経験を積んだら、わたしたちには未経験者に経験を伝えようとしなければなりません。

むかしの産業革命以前は、職人は自分の技を弟子に教えませんでした。住み込みで低賃金で過酷な労働を強いて、見て盗めと進んで教えようとしませんでした。しかし産業革命を経て、テイラーのような科学的管理法で業務は平準化、定量化されてきました。このことが社会の発展と個人の成長を促してきました。

日本では、QCサークルでの発表会やOJTを通して、ベテランが部下を教え、全員で品質改善をサークル活動として行うことで業務の理解だけではなく、業務改善の姿勢や方向性を上司から部下に伝えてきました。この手法はアメリカのデミング博士から戦後学んだ手法でしたが、現場主義の日本で広まりました。

このような形で「実務」と「教育」の両立が組織と個人の成長につながりました。

教育するのは自分のため

教育は何も人助けだけではないのです。自分のためでもあります。

実務ができればいい、という人がいます。でも実務だけでは成長に限界があります。お客様や会社は成果を求めます。得意なことを効率よく進めてもらいたいものです。その過程には、効率を極めるという修練はありますが、自分がやったことのないチャレンジは、中々できないものです。失敗するかもしれないことをやるのは誰だって腰が引けます。やったことないことは誰でも初心者ですが、そんな初心に帰る経験は、なかなかできないものです。

もしそのようなチャレンジができるとすれば、教育が背中を押します。自分の生徒に、部下に仕事においての経験や志を教え、成長させることができたという喜びを与えれば、それは教える人にとっても大きな喜びになります。

ただし、知ってるやり方をただ同じ用に教えてるだけでは機会を創造できません。機会を創造できるのは、初心に帰って取り組んだことだけです。教えることは手順ではありません。姿勢、経験、喜び、苦労。人としての体験です。それは「初心」になってチャレンジしたことにあります。

未経験者がより成長するために自分が「初心になり」未経験の分野にチャレンジすれば、自分だけではなく教えた生徒、部下の成長につながります。

彼ら教え子が行えば大失敗するかもしれない、でも自分ならある程度上手にできるのではないか?そんな気持ちから、未知の分野へのチャレンジをする勇気が湧いてくるものです。自己の成長が教え子の成長につながるからです。たとえ失敗しても怪我しても帰ってこれるのが経験者の強みです。失敗したって「それはやっちゃだめだよ」と教えることで、また自分と教え子の成長として失敗すら自分たちに帰ってくるからです。

荒野に立つこと

この「実務」と「教える」のサイクルが自分の中で回ると人は勝手に成長します。失敗も成功もチャレンジであり、その過程こそ「不相応の初心で取り組む」「いつでもチャレンジをする」という仕事への姿勢をつたえられるようになるからです。

だからベテラン、経験者、有識者こそ、最前線にいることを喜びとするようになります。ちょうどアスリートがより難しいトーナメントを目指すように、もっとも難しい、困難な、仲間がいないところに向かおうとします。なぜならその行動する自分の背中がその周りの仲間、教え子、後輩の模範になり、道標になることを知ってるからです。

初心を忘るるべからずとは、自らを省みて、自立して成長させ、周囲の成長を促す原動力であると私は思います。